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マルヒア・コジマ

Author:マルヒア・コジマ
マナ・カードセラピスト兼ハワイ文化講師です。名古屋と名古屋郊外 岐阜、三河方面でマナ・カード&ハワイ講座をさせていただいています。ハワイの神話、文化などなど、熱~く語る事が趣味。講座情報、イベント情報などをお知らせします。

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バウンティ号事件の概要

Aloha!

では、「バウンティ号の叛乱」(はんらん)とは
どんな事件だったのでしょうか?

ざっと説明すると、

『1789年4月28日に、トンガ沖で
イギリス船バウンティ号の1等航海士と25名の船員が
船長(司令官)に対して叛乱を起こし
船長と19名をボートで追放した。

反乱者たちはタヒチへ引き返し
彼らのうち9名とタヒチアン19名とともに
無人島ピトケアン島へ逃亡。
ここを最終目的地としてバウンティ号を焼き払った。
(その後1808年にアメリカ船がこの島に来るまで隔絶されていた)。』


当時は大航海時代で、
力のある国が調査航海に出て
自国の植民地として国勢をあげたりしていたときです。

バウンティ号は、
当時イギリス領西インド諸島の植民地化のために
アフリカから連れてこられた奴隷たちの食料に
ポリネシアのウル(パンノキ)が最適ということで
タヒチへ寄港し、ウルの苗をゲットして
西インド諸島は向かうところでした。

司令官でもある船長のウィリアム・ブライは
クックの船にも乗っていた人で、まあ弟子みたいな人ですね。

「厳格な軍人」ブライのやり方が厳しすぎた(リンチとか・・・)のと、
寄港したタヒチが魅力的すぎた(恋人ができたり・・・)のか、
不平不満が積もって起きた事件。

上官を追放した上
国策も全うせず、タヒチアンたちと新しい暮らしを夢見た
一等航海士フレッチャー・クリスチャンと
バウンティ号にとどまった人たちは
タヒチに残った者はそこで死んだものや
本国へ戻される間に死んだもの、
本国で死刑になったものなど。

クリスチャンとともにピトケアン島へ渡った者も
仲間割れで殺し合った。

一方、ブライ船長のボートは
3,618マイルを乗り切って、
ティモールに奇跡的に到着。
18人中11人が無事帰還。

史実なので
ハッピーエンドではないのが残念です。

クリスチャンは英国では人気があり、
実はひっそり英国に帰っていた、なんていう説もあるほど。

彼目線の映画なので、
ブライ船長は分が悪いですが、彼も人の子、
実は奥様と6人の娘を愛する思いやりの深い人物だったそうです。
ただ、職務に忠実すぎただけなのかもしれませんね。









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